大相撲の黎明期から大鵬の大活躍で相撲人気が高まった1960年代までの大相撲の歴史・出来事・事件を紹介します!
1945年:戦後の復興から再スタート
8月の戦争終結から大相撲が再開したのはわずか3か月後の11月でした。
焼失した両国国技館で晴天10日間興行の秋場所から再スタートが始まります。
しかしこの年末に国技館が進駐軍に接収され、危うく相撲協会事務所も路頭に迷いかけます。
その後も粘り強く交渉を実施し、1946年11月に両国国技館をメモリアルホールと名前を変えて秋場所を開始しました。
その後は、神宮外苑や大阪の福島公園など仮設国技館での開催がメインになります。
1947年:優勝決定戦制度・三賞制度の導入
優勝決定戦制度の導入
同成績の力士が首位で並んだ場合は番付が上位の力士が優勝とするのがそれまでのルールでした。
しかしこの年の夏場所から、優勝決定戦制度を導入し、最強力士をはっきりと決めるように変更されました。
優勝決定戦では、本来あり得ない「同門対決」などもみられるため、好意的に受け入れられ、相撲人気の向上に一役買いました。
三賞制度の導入
戦後の混乱期にあって相撲人気を高めるため、相撲記者クラブから技能賞・敢闘賞・殊勲賞の三賞受賞者を毎場所で表彰することを提案されます。
相撲協会もその提案を受けて、1947年11月場所から三賞制度の導入します。
第1回は受賞資格や各賞の意味合いが定まっておらず、殊勲賞の候補に優勝したはずの羽黒山が挙げられるなど、現在では考えられないような候補者が出ました。
しかし2回目以降からは基準が定められ、現在まで続いています。
1953年:テレビ中継の開始
大相撲の人気に火をつけたのは、テレビ中継でした。
当時メディアの王様だった新聞に加え、テレビで迫力満点の取り組みが日本全国でみられるようになり、相撲人気は爆発。
特にテレビが一般家庭に普及したこともあり、「テレビ桟敷」という言葉も生まれるほど、テレビ中継の影響は大きいものでした。
1954年:蔵前国技館の完成
蔵前国技館跡地の公園
1945年の再開以来、仮設国技館巡りを続けていた大相撲でしたが、本格的な国技館を取り戻したい、という思いから新国技館の建設計画がスタートします。
順調に建設計画は進み、1949年に地鎮祭を行い、仮設での興行を経てついに1945年9月に蔵前国技館が完成します。
その後の新両国国技館(現在の国技館)に移る1984年まで相撲の聖地として親しまれていました。
1957年:出羽海理事長の割腹自殺未遂事件が起こる
順調に人気を集めていた戦後の大相撲ですが、この年に大事件が起こります。
桟敷席が大企業に独占されていることを国会で追及されると、出羽海理事長が蔵前国技館の中で短刀を用いて割腹自殺(未遂)を図ったのです。
協会が体制の改革などを本格的に議論しはじめた最中の出来事でした。
前時代的な「ハラキリ」は不評を買いましたが、後任の時津風理事長(元横綱・双葉山)や武蔵川理事らが以下の改革を実現。
・力士の月給制
・年寄/行司の定年制
・一般人でもチケットを買いやすくする
・相撲教習所の設置
現在まで続くこれらの改革の甲斐もあり、相撲界はクリーンになっていきました。
1958年:現在の6場所制がスタート
1958年には現在まで続く年間6場所制がスタートします。
それまでも本場所は6場所だったのですが、本場所の間に「準場所」と呼ばれる本場所が開催されない土地での興行もありました。
準場所と巡業の違いは、準場所の成績が給金に影響すること。(番付には影響しない)
しかし、この年から本場所6場所以外の興行は巡業とし、巡業はファンイベント的な要素が強まりました。
1961年:大鵬・柏戸が同時に横綱に昇進!柏鵬時代に突入
高度経済成長期にはいった1960年代に入ると同時に、相撲界に「大鵬」「柏戸」といった二人のスターが現れます。
若手大型力士の大鵬・柏戸はスケールの大きな本格派の相撲で人気が急上昇。
そして1961年に二人そろって横綱に昇進する快挙を達成し、大きな話題となります。
その後は大鵬が独走状態に入り最終的に32回の優勝を数えますが、柏戸とのライバル関係は人々の注目を大いに集めました。
特に大鵬は「巨人・大鵬・卵焼き」という流行語が生まれるほど、人気は傑出していました。
1965年:大鵬・柏戸が短銃所持で事件を起こす
大鵬・柏戸の二枚看板が相撲人気をけん引していた1965年に、両者が短銃を所持していることが発覚し、書類送検・略式起訴(罰金処分)されます。
ことの発端は、廃業した元大関の若羽黒がピストルを不法所持しており、銃刀法違反で逮捕されたことでした。
その後警察が調査を進めると、横綱2人が捜査線上に浮上し、短銃所持が発覚したのです。
2人は「海外巡業の際にもらった。警察の捜査が厳しくなり怖くなって隅田川に捨てた」と供述。
他の幕内力士にも銃所持が発覚するなど、問題は次々と起こりましたが、なぜか大きなニュースにはならず。
というのも、当時は海外旅行のお土産に洋酒やタバコだけでなく、冗談半分でピストルを購入する人も多くいた時代だったためです。
現代なら、大問題になるような事件ですが、時代的な背景もあって大ごとにはならなかったようです。
1969年:誤審により大鵬の連勝がストップ!社会問題に
この年の春場所、大鵬は初日に勝利し連勝を45に伸ばし、伝説の横綱・双葉山の69連勝にどこまで迫れるかに注目が集まっていました。
しかし2日目の戸田戦で事件が起きます。
戸田の突き押しに防戦一方となった大鵬ですが、なんとか突き落としで勝利をもぎとりますが、物言いがつき、行司差し違えで戸田の勝利に判定が覆ります。
しかし、テレビのスロー再生でみると、戸田の足が一瞬早く土俵を割っており、誤審が明るみに。
偉大な記録がかかった横綱の一番が誤審でストップしたことで相撲協会には批判が殺到しました。
その後の1974年に、物言いがついたときVTR判定を用いるなど、他のスポーツに先んじてビデオ判定を導入することになります。
なお、当事者の大鵬は負けた直後は激怒していましたが、のちに「あんな相撲を取った私が悪い」と潔く認めています。
潔く判定を受け入れ、謙虚に相撲道にまい進する大鵬は、相撲の模範たる大横綱らしい姿勢として称賛されました。
60年代を彩った力士たち
大鵬:通算32回の優勝を記録した偉大な横綱
柏戸:大鵬のライバルとして活躍した横綱
栃錦:若乃花と栃若時代を築いた横綱。その後理事長となり両国国技館の建設を達成
若乃花(初代):荒業で土俵を沸かせた土俵の鬼の異名を持つ横綱
朝潮:大阪場所では無類の強さを見せた横綱
栃ノ海:177cm,110kgの小兵だったが鍛え抜かれた肉体と技で大男をなぎ倒した横綱
佐田の山:大鵬・柏戸に続く第三の男と目された実力者