千代の富士フィーバー到来!1980年代の大相撲の出来事・事件を紹介!

80年代といえば、ウルフこと千代の富士です。

今回は千代の富士がウルフフィーバーを巻き起こした80年代の大相撲の出来事・事件を紹介します。

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1981年:千代の富士が初優勝から一気に横綱に昇進を遂げる

現在の九重部屋の前には、
千代の富士の石像があります。

1975年に初入幕を果たし関脇まで出世していた千代の富士は、この年の初場所に北の湖との優勝決定戦を制して、初優勝。

その後、名古屋場所を制し、横綱に昇進し、九州場所でも優勝し、ブレイクを果たします。

初優勝からの異様な出世スピード、細身で筋肉質な肉体に加え、精悍な顔立ちも相まって千代の富士人気は沸騰。

その人気からウルフフィーバーと呼ばれました。

千代の富士は最終的に31回の優勝を成し遂げる大横綱として記憶されますが、80年代を席巻するウルフフィーバーが始まったのは、81年のブレイクからでした。

1984年:小錦が二横綱を倒し黒船旋風を起こす!

横綱に出世後も順調に優勝を重ねる千代の富士に加え、隆の里、若島津などの有力な力士がしのぎを削っていました。

しかしこの年の名古屋場所で、新入幕のハワイ出身力士・小錦が千代の富士/隆の里の二横綱に加え、大関・若島津を連続で撃破。

結果として、殊勲賞と敢闘賞を受賞し、その活躍から「黒船来航」「小錦旋風」と呼ばれました。

巨体を活かした押し相撲で金星を挙げる小錦

187cmの長身に加え、270kg以上の巨体を活かした相撲は角界に文字通りの衝撃をもたらしました。

その後小錦は、外国出身力士として初めて大関まで出世を遂げ、相撲界に大きな足跡を残しました。

1985年①:大横綱・北の湖の引退と両国国技館の完成

大横綱・北の湖が引退

80年代の北の湖は足や腰のケガと戦いながらも、後進の力士たちともわたり合っていました。

しかし、徐々にケガに蝕まれ、かつての「憎たらしいほど強い」といわれた姿は見られなくなりました。

かつての名横綱も
晩年は満身創痍。

両国国技館のこけら落としとなった1985年の初場所で、ケガを押して強行出場しますが、連敗を喫し、そのまま引退を表明します。

特例として一代年寄として「北の湖」を名乗る資格を得ると、後年は名理事長として活躍しました。

蔵前国技館から両国国技館へのバトンタッチ

1954年から相撲界の聖地として親しまれていた蔵前国技館でしたが、老朽化が進んでいました。

そして、蔵前国技館の後釜として、かつての相撲の聖地・両国に新たな国技館を設計する計画が発足。

3年間の工期を経て1984年11月30日に遂に新両国国技館が完成します。

現在も相撲の聖地として親しまれている両国国技館

当時の春日野理事長は両国国技館再建への思い入れがひときわ強かったようです。

こけら落としの初場所を大横綱・北の湖の引退場所にするよう、出場を要請したという逸話も残っています。

1985年②:元横綱・輪島の年寄名跡問題が発覚

北の湖の引退・両国国技館の再建と、新時代に突入した大相撲ですが、その北の湖のかつてのライバル・輪島にスキャンダルが起こります。

当時、花籠部屋の親方だった輪島でしたが、年寄名跡を担保に多額の借金をしていたことが発覚します。

相撲部屋の経営権を持てる年寄名跡は本来は売買禁止ですが、65歳の定年まで立場が保証されることから、高額で売買されるのが実情でした。

年寄名跡は利権が絡み、高額で取引されました。

即座に花籠親方(輪島)は、2階級降格の処分を下され、その後退職する事態に発展。

部屋の力士は放駒部屋に移籍する形の処分となりました。

その後の調査で、他の親方も年寄名跡を担保に借金をしていることが発覚し、処分されるなど、事件はさらに拡大。

輪島は相撲界を去った後に、全日本プロレスに参入したり、アメフトチームの監督を務めたり、バラエティー番組に出演するなど波乱万丈の人生を過ごすことになりました。

1987年:横綱・双葉黒が失踪事件を起こし、突然の引退

千代の富士が順調に勝ち星・優勝回数を重ねていた80年代の相撲界ですが、千代の富士に対抗する存在も育っていました。

その中でも双葉黒は、195cmの長身と、センスのある取り口から、次代の大横綱になると期待される逸材でした。

双葉黒は、1986年に千代の富士と何度も優勝争いを繰り広げた結果、相撲内容・将来性が評価され、優勝経験がないにもかかわらず、異例の横綱昇進を果たします。

千代の富士に並び、超える存在として期待された双葉黒でしたが、1987年12月に親方と意見が対立し、女将さんを突き飛ばしてそのまま部屋を脱走。

そのまま引退(廃業・破門)してしまいます。

その後、引退会見でも奔放な発言を繰り広げた双葉黒には批判が殺到し、双葉黒の事件はアメリカでもニュースとして取り上げられるまで波紋を広げました。

元々、双葉黒は精神面が未熟と評価されており、奔放な性格から、たびたびトラブルを起こして「新人類」と呼ばれていました。

横綱昇進の際も「心技体の”心”がない」という理由で昇進の是非が議論されたこともあるほど、危うい力士だったのです。

双葉黒の突然の引退は、その後の横綱昇進基準の厳格化につながっており、今でも「横綱の品格」が問われる一因を作ったとも考えられています。

1989年:千代の富士・北勝海の九重部屋勢が覇権を分け合う

千代の富士が看板力士だった九重部屋に、1987年にもう一人の横綱が誕生します。

北勝海は1986年に関脇で初優勝を達成すると(当時の四股名は保志)、1987年の大阪場所で優勝すると、5月場所を経て横綱に昇進します。

北勝海は現在の八角理事長として知られています。

真摯に稽古に打ち込む姿が評価された北勝海は、千代の富士と並び立つ力士として成長。

1989年は、6場所中5場所で千代の富士・北勝海の九重部屋力士が占めました。

特に、7月の名古屋場所は、史上初の同部屋横綱同士の優勝決定戦が行われ、注目を集めました。

千代の富士と北勝海による史上初の同部屋横綱同士の優勝決定戦

80年代を彩った力士たち

千代の富士:80年代を代表する大横綱。優勝回数は31回で歴代3位。
隆の里:遅咲きながらも千代の富士のライバルとして活躍。
双葉黒:才能に恵まれ、期待されて横綱に昇進したが道半ばで角界を去る。
北勝海:千代の富士との猛稽古の末に横綱に昇進。九重部屋全盛期を担った。
大乃国:200kgを超える巨体を誇る横綱。現在はスイーツ親方として有名に。
旭富士:センス抜群の技巧派の横綱として4度の優勝を果たす。
若島津:精悍な顔立ちで「南海のクロヒョウ」と呼ばれた人気大関。
小錦:新入幕で二横綱・一大関を倒し、外国人として初めて大関に昇進した。
朝潮:学生相撲で大活躍し期待されて角界入り。大関まで昇進した。

80年代の優勝力士一覧はこちら

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